ホンダヨンダメモ/Z

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池内紀『ヒトラーの時代』(中公新書、2019年7月)

副題に、「ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか」とある。

 

ヒトラーの時代-ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか (中公新書)

ヒトラーの時代-ドイツ国民はなぜ独裁者に熱狂したのか (中公新書)

 

 

 カール・クラウス、ヨーゼフ・ロート、ジャン・アメリー、フランツ・カフカ、そしてギュンター・グラス。これまで訳してきた本の背後に「一人の人物」がいた、と「あとがき」で著者の池内紀は書く。

ついては「ドイツ文学者」を名のるかぎり、「ヒトラーの時代」を考え、自分なりの答えを出しておくのは課せられた義務ではないのか。誰に課せられたというのでもない、自分が選んだ生き方の必然のなりゆきなのだ。

 ヒトラーの登場からその絶頂期に至るまで、大まかな流れは作ってあるけれど、基本的には年代を追っての記述ではなく、トピックごとの章立てとしつつ、時期的な前後や重複をいとわずに、ヒトラーという人間のありようや彼の台頭を許した人々(それはドイツ国民だけではない)のふるまいを、現象を読み解きながら浮かび上がらせる、という本。

 お抱え写真家ハインリヒ・ホフマンによる肖像写真、演説の声、キャッチフレーズの「文体」、若き文化官僚による小説、KdF(「歓喜力行」)の船旅と「国民車」構想、ラジオ、音響学とマイクロフォン、「ジュタリーン文字」、そして雑誌の表紙や絵画、写真に浮かぶヒトラーの「顔」、などなど。

 「ヒトラーの時代」がすっきり見通しよく描かれるのではない。そうではなくて、行きつ戻りつしながらさまざまな事物の細部にそのつど「ドイツ文学者の目」をとおして分け入ることで、かの時代がなぜああなったのか、を描き出そうというもくろみ。

著者の真骨頂だと思うのは、マレーネ・ディートリヒと名取洋之助を取りあげた章。そして、ベルリンにあったフィロ書店が1938年に刊行した『フィロ・アトラス ユダヤ人の亡命のためのハンドブック』の章。

その国家によって、ユダヤ人存在が規定された。「ユダヤ信条のドイツ市民」たちの亡命が遅れたのは、このような事情による。おぞましい敵によって我が身が規定され、はじめて自分がユダヤ人であることを思い知った。「ユダヤ人ではない」のではない人間として、ユダヤ人でなくてはならず、そんな自分に途方にくれている。フィロ書店の「亡命の手引き」は、そんな三〇万にのぼる非ユダヤ的ユダヤ人のためにつくられた。

  どんな人々が、どのような人に向けて出した本なのか。「アトラス」として記述される国々(日本も含まれる)はどう書かれているか。編集・刊行した人たちはどうなったか。

ベンヤミンはおそらく『フィロ・アトラス』をひらかなかったのだろう。

 ところで、本書は刊行直後にSNS上で、歴史的事実や政党名、雑誌名などに多くの誤りがあるとドイツ史の専門家から指摘を受けた。参照されている研究は古いものばかり、最新の研究が踏まえられていない、とも。それが専門家のあいだで問題視されたのは、この本が中公新書という一定の信頼感を得ているレーベルの一冊として刊行されたことが大きい。たしかにぼくの知識レベルでも、おや、と思うところはある。そしてたとえばジュッタリーン文字の章は、なにか基本的な勘違いをなさっているのでは、と感じられた。これまで池内先生の著書訳書を読んでいるときも、おやと思うことはけっこうあった。

 けれども、もし指摘されている誤りが正されるならば(それはおそらく難しいだろうが)、本書はヒトラーという人物の周囲をひとりの「ドイツ文学者」がぐるぐるとまわりながら、パッチワークのようなやりかたでその実像と虚像の重なりを提示するものとして、おびただしい数の「ヒトラー本」のなかにたしかな位置を占めるはずのものだと思う。それだけに、ちょっと残念……。