ホンダヨンダメモ/Z

読書メモ。読んだもの観たもの聴いたもの。

ブレヒト『アンティゴネ』(谷川道子訳、光文社古典新訳文庫)

谷川道子訳ブレヒトとして光文社古典新訳文庫では4冊目となる『アンティゴネ』を読んだ。

 

アンティゴネ (光文社古典新訳文庫)

アンティゴネ (光文社古典新訳文庫)

 

 「ソフォクレス原作・ヘルダーリン訳による舞台用改作」と添えられた、1948年にブレヒトが亡命からドイツ語圏スイスへと戻って最初に書き上演した作品。

テーバイの王クレオン、オイディプスの娘アンティゴネ、預言者テイレシアス、そしてコロス/枠組み/観察者としての長老たちによる、国家、死者の弔い、支配被支配関係、祖国・愛国と個人、などなどの問題群をめぐる対話劇である。

今回も谷川先生(恩師なので敬称つけます)の「解説」と「訳者あとがき」は充実しているのだ。そしてさらにクリアさを増している。現代演劇の最先端のところで、現在もアンティゴネは召還され続けている、その理由がよくわかる。「コロス」というものがなぜ今これほどに取り組まれているのか、も。

アンティゴネもクレオンもテイレシアスも、徹底的に「論理」をベースに語り続ける。まさにガチガチの「西洋」がそこにはある。そしてそれらの論理は交わらず、結果として国を滅ぼしていく。我々は今に生きる者として(日本ではそれはたとえば津波と原発事故後に生きる者として、ということでもあるだろう)それらの論理とどのように切り結び解釈すれば良いのか? ブレヒトが加えたコロスとともに、読者/観客はこの問いに問いかけられ続けねばならない存在として、設定される。

しかし…日本の状況としては、そもそも我々はそのような「存在」たり得る力を持っていない、そんな「論理」には耐えられないかもしれない…という思いが、実を言うとますます募ってはいるのだ。創作の世界においても、私の論理が他者の論理の簒奪の上にはじめて成立しているという自覚を持ちつつなお論理/作品を創造している「作者」が、あるいはブレヒトのようにそれを十分把握しながらそれを軽やかに朗らかに歌い上げてしまう精神力を持って創作している者が、どれだけいるのだろう。

主人と奴隷の関係を、奴隷が主人となる形でなく、その支配の総体を、そこから生まれる観念形態を疑ってみること。それには何が必要なのか。お仕着せの思想をうたがうこと、自らを、他を差別する意識は我が内にもありはしないかと疑うこと。疑ったときに、今度は自分の拠って立つ所、自分の論理を見出さなくてはならない。

(解説、149ページ)

 おそらく「自分の論理」とは、見出しては壊れ、崩れては組み立てる、永遠の作業の波頭にぼんやり立ち上がる、ものであるべきなのだろう。「アンティゴネ」は、ブレヒトの『アンティゴネ』は、そのような「人間」が始まるところを示すもの、だからこそ常にアクチュアルである、のかな…というあたりまでが、読み終わったばかりの今の時点で考えたこと、だ。

クレオン お前はいつも、自分の鼻先しか見ていないのだ、神の秩序である、国家の秩序はないがしろにして。

アンティゴネ 神の秩序かもしれない。でも私はそれが、人間らしい秩序であってほしかった。

(58ページ)