ホンダヨンダメモ/Z

読書メモ。読んだもの観たもの聴いたもの。

マームとジプシー『cocoon』

 この水曜日、東京芸術劇場でマームとジプシー『cocoon』を観た(マチネ)。幾人かの信頼できる人が観ることを強く薦めていたので、並んで当日券を買い求めて観たのだ。そして、たしかに2時間ほどの舞台に引き込まれ、終わったあと、満たされるものが確実に体に残った。

 前売り券を買わなかったのは、1年前に三鷹で観た『ワタシんち、通過。のち、ダイジェスト。』がぼくには合わなかったから。今回以外にはそれしか観ていないのでなんとも言えないのだが、この劇団の特徴であるらしい、仮想の正面を変化させつつ動きと台詞をリフレインさせる手法、「現代口語演劇」のひとつ、というのか、の台詞回しと動きの「形」が意味的に連動していないスタイルが、作者/演出家の余裕なき強張り、のようなものを強く感じさせて、ちょっと辟易したのだった。舞台上にある「小さなウチワの世界」と中年後期のぼくとをつなぐ糸、たとえば普遍化の工夫、演劇全体のコンテキストとの関連づけ、フィクショナルなリアリティの確保、などのようなものがなかった、ように思えた。

 そのスタイルは今回も(もちろん?)踏襲されていて、特に前半はちょっと辛かったのだ。それがしかしひどく苦痛でなかったのは、おそらく登場人物の中心が女性の集団、10代の少女たち、であったからかな、という気がする。切れ目のないハイテンションな会話とその反復、は少女たちには違和感がない(実はこの劇団の男性俳優、特に今回台詞を持っていた人、は、かなーり苦手なのだ…)。これって偏見かな…

 さらに。台詞も、動きも、音楽も、スクリーンを使った舞台装置も、すべてが持続的にハイテンション、観ていてそのうっとうしさにまがりなりにも耐えられたのは、内容のゆえではないか?  南の島、戦争、無残に殺され餓死し自殺していく少女たち。登場人物ひとりひとりが陽気に紹介され世界が提示されていく前半では目立っていた劇団の「形」が、悲惨さを増す後半では次第に薄れていき、内容とセリフと俳優がストレートに意味を担いはじめると、舞台は俄然深みを帯びはじめる。中心俳優なのだろう青柳いづみ(すごく良い俳優!)の存在感が際立ちはじめる。

 ぼくは原作のマンガ、今日マチ子『cocoon』を読んでいる。良い作品だと思うが、内容とスタイル(と画力?)が少しかみ合っていない気がしていた。マームとジプシーもそうだけれど、絵なり「形」なりが内容や意味や展開をどうしようもなく引きずり回し、作者の手を離れて物語が動いてしまう、というような、読むもの・観るものにとって快楽を与えてくれる要素があまり感じられなかった。

 今回の舞台は、そのような両者が幸福な出会いをし、そして舞台外のコンテキスト(8月、政治状況、などなど)も後押しをして、良い芝居になったのではないか…。たぶん、センスがあって頭が良くて自信がある人どうし、たまにぶつかり合った方がいいんじゃないかと…。苦労して当日券とって観た甲斐があったし、俳優から発せられる言葉が観るものにリアルに届く場面が、確実にあった。隣の若い男性は途中で鼻をすすっていたよ。