ホンダヨンダメモ/Z

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『天気の子』(原作・脚本・監督 新海誠、東宝配給)を観た

 映画『天気の子』を観た。

叙情的な男女の物語を、美しい色彩と繊細な言葉で紡ぎ出す“ 新海ワールド”

(公式サイトより)

  雑多さを含めた東京の緻密な描写、雲と雨のダイナミックな描き方を大画面で堪能。

 ストーリーというほどのものはない。母の死を契機として天からの啓示に導かれて鳥居をくぐり、晴れを呼ぶ能力を身につけた少女・陽菜と、家出少年・帆高との出会い。異常気象によって水に浸かる東京。恋愛とまではいかない少女少年の「好きだ」的交流が「この世界を救う」レベルと直結する、典型的なセカイ系物語(という説明などそもそも不要だろう)。

 だから、あまり「読み解く」必要はないような気もする。オカルトに親和的な世界の設定があって、その枠のなかで登場人物たちが動く。そういうラノベ的ゲーム的世界観に親しんでいる、あるいは親しんでいなくてもそういう時代のなかに生まれ育った世代(へ向けて)の作品なのだろう。降り止まぬ、そして東京を破壊していく雨は、穂高にとっての生きることの困難さを視覚化したものに過ぎないとも言える。

 「設定」と書いたのは、雨を降らす者、陽菜に力を与えた者、「人柱」を要求する者、としての超越的存在についていっさい語られず、物語のなかの人間はその存在について考えたり疑問を持ったりすることがない、ということに関わる。あれだけリアルな都市の描写のなかで、ゆいいつ非現実的な廃墟としてのビルは、あきらかに「神殿」として描かれている。そのような設定からして本来なら超越的な者によって与えられるべき存在の肯定を主人公みずから言葉として発するということ、そこにこの作品のキモがあるはずだが、まあ一回観ただけではよくわからない。

 それは若者たちを含めた未来への希望なのか、それとも若者たちが捕らわれている閉塞状況(世界はすでにそうできていて変えられない)を暗示しているのか、はたまた本来自分たちが解決すべきだったことを脳天気に次世代にゆだねてしまう、若者に「だいじょうぶ」と言わせてしまう「大人」の無責任なのか。

 描かれた東京を味わうだけでも、じゅうぶんに観た甲斐はあった。超リアルに描くことがそのまま異世界の描写になってしまう、東京。