ホンダヨンダメモ/Z

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映画「コーヒーをめぐる冒険」をみた

 2013年のドイツ・アカデミー賞で作品賞をはじめとする主要6部門を授賞し,ドイツ以外でも多くの国々で公開されているという,評判の映画である。監督はヤン・オーレ・ゲルスター,これがデビュー作と。渋谷のシアター・イメージフォーラムに11時に行き、13時からのチケットを買い整理券をもらう。14番である。すぐ前のスタバで昼を食べ本など読みつつ開演を待つ。
 12時半ごろ劇場へ行くと、寒いので人々は狭い狭いロビー? にぎゅうぎゅうと入っている。若者の姿はほとんどない。年配の、上品そうな男女ばかりだ。前評判を見聞きする限り、この映画は監督も内容も「若者」のカテゴリーに入るものだろうのに、そして大学など春休みであるはずなのに。今の大学生たちは、このような「ミニシアター的なところで公開されるような外国の映画」を観る習慣を失ってしまったのだろうか?
 90分ほどのこの作品を観終えて、一日のうちに恋人に振られ大学は中退し運転免許を失い親からの援助も打ち切られる、いわば人生のエアポケットに宙吊り状態となる若者の、しかし同時にさまざまな出会いもつまった一日を、それなりに楽しく見届けたなあ、という印象であったのだ。
 けれど、改めて喫茶店に入りパンフレットを眺めつつ反芻してみれば、作劇法としてはかなり単純だった、という気もしてくるのである。エピソードをつないで描く、ツキのない若者の一日。モノクロも含め、衒いなくあっけらかんと示す過去の映画へのオマージュ的シーン。ディスコミュニケーションをありつけないコーヒーで象徴させること。パンフレットに書かれている短い作品紹介が、すべてを語ってしまっているように思えるほどだ。非常に良くできた映画学校の卒業制作みたいだな、と思ったら、パンフレット読んだらその通りだったので、その意味でもなんともわかりやすい作品…。
 それでもこの映画がなぜかざわざわとした、妙に気になる印象を残すのは、たぶん、監督が人も世界も「映画」というメディアも、すべて驚くほど突き放して見て、扱っているからではないだろうか。親、隣人、友人、かつての同級生など本来親密な関係を築けるはずの人たちとはうまく関係を結べない、一方で少々ぼけた老婦人や戦争を経験しその後周囲との関わりを絶ちつつ「言葉が理解できない」と「語る」老人とは心を通じ合わせることができている、ように描かれる、そのそらぞらしさ。あるいは、ただ廊下を歩いているシーンのなかにわざとフィルムをつなぎ合わせたような不連続を持ち込み、映画自体のフィクション性を示すやりかた。主人公の行動や出会いには意味がない、ゆえにそれは物語を紡がず、映画としての結末をもたらす力もない。飲みそこね続けたコーヒーにありつく、というそれ自体なんの意味もない事柄に託してシーンをつなげ、そしてあっけなく終わらせるしかやりようはないのだ、とでも言わんばかりの、ラストシーンの唐突さ。”Oh boy” という、ほとんど意味のないうめき声のようなタイトルは、この作品をよく表現しているのだった。
 このようなありようは、それはそれで世界のあり方のひとつの側面なのだろう。そしてベルリンという街が、そんな(ベタな言いかたをすれば)「表層感、浮遊感」を描くのに適した場所なのだろうということもよく伝わってきたし、この映画の魅力はそこにこそある。
 
 ところで、1938年11月9日におこったいわゆる「水晶の夜」、帝国ポグロムの夜に自ら石を投げたと語る老人がバーを出たところで道に倒れ、そのまま死ぬことになるのだが、付き添っていった病院で老人の死を知らされた若者は老人の名前を看護師に聞く。ファーストネームだけ、と教えてくれたのは、フリードリヒという名前だった。若者が老人と出会うバーに行く前のシーンで、フリードリヒ通り駅が映る(字幕にもその名が示される)。その関わりはそれとして、ぼくが考えたのは1961年に出版されたハンス・ペーター・リヒターの児童文学『あのころはフリードリヒがいた Damals war es Friedrich』だった。日本語でも上田真而子訳で読むことができる。主人公の「ぼく」と、アパートの階上に住むユダヤ人一家の息子、幼なじみの友フリードリヒが体験する、1925年から1942年までのできごとを描く物語。こちらのフリードリヒは、石を投げられ、家を荒らされるほうに属している。そして最後、空襲のさなかに防空壕へ入ることを拒否され、道端で死ぬ。

 1938年という過去から「フリードリヒ」という名前を若者に告げるためにのみ現れたようにも思える老人が道端に倒れ動かなくなるシーンを見ながら、ぼくはリヒターのこの小説を思い出していた。Pechvogel=ツイてないやつ、としての若者の一日を軽妙に描く映画の締めくくりに、ドイツ史にPech=ピッチのようにこびりつくあの11月9日を召喚してしまうこと。かつて東西ベルリンを切り裂く境界上にあり、その間を行き来するために通らねばならぬ迷宮としてのフリードリヒ通り駅を舞台に選ぶこと。ベルリンの一点で交差する、時間軸と空間軸。それを描くことこそ、この映画のもくろみだったようにも思えてくる…。