ホンダヨンダメモ/Z

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『ことばの力学」と『漢字雑談』、二冊の新書を読んだ

白井恭弘『ことばの力学 — 応用言語学への招待』(岩波文庫、2013年3月)と高島俊男『漢字雑談』(講談社現代新書、2013年3月)

 先月出た新書の中で、言葉に関するもの2冊を読んだ。

 『コトバの力学』は、タイトル通り、「応用言語学」の入門書としてとても良くまとまっている。あまりによくまとまっているので、面白みはない、ような気がしてしまうほど(つまらない、ということではないです)。あとがきにもあるように、これはまさに「教科書」だ。

 第Ⅰ部は「多言語状況」、第Ⅱ部は「社会の中の言語」。どちらも、「今でしょ!」的問題である。国家の「言語政策」も重要だけれど、ぼくとしてはやはり「バイリンガル」や「外国語教育」に関する章に興味が惹かれる。

 「バイリンガル」については、けっこう硬直したイメージが流布しているのではないかと思う。実際の状況はだいぶ複雑かつ微妙・多様。バイリンガルの子どもの方がモノリンガルの子どもより「認知的優位性」がある、というのが定説のようだが、そこに国家的・エスノセントリックな「純粋主義」が絡んでくると、問題はややこしくなる。もうひとつは、「日常言語能力(BICS=Basic Interpersonal Communicative Skills)」と「学習言語能力(CALP=Cognitive Academic Language Proficiency)」を区別すべきということ。バイリンガルは、複数の言語において後者の能力を「共有」している、と。だから、外国語習得にも関わることだが、学習言語能力を最低ひとつは確立することがなによりも重要になる。

 「外国語教育」に関してメモしておきたいのは、79ページにある「外国語教育が、その言語を話す人々に対する好意的反応をもたらす」ということ。イスラエルでのアラビア語教育においてそれが実践され、成果をあげているのだとか。

 あと重要だと思ったのは、政治やメディアの「言葉遣い」が我々の「無意識」を巧妙に操作している可能性を、常に念頭に置いておくべきということ。「無意識」は自分ではコントロールできない。「そう思ってしまったのだから仕方ない」ではなく、差別や偏見などは誰にでもあり、しかしそれを理性で、つまり意識で制御すること、他者が自分の無意識へ働きかけるプロセスを意識化し、それにいかに抗うか考えることが大切なのだ。

 

 『漢字雑談』。「教科書」タイプとは対極にある、楽しい本である。言葉を考えるときはその歴史を知らねばならないんだよなあ、とあらためて確認させられる。著者は中国(語)が専門だから、自ずと日本における「漢字」「漢字語」の来歴がエピソード豊富に語られるのである。

「日本人は昔から、生活の基本観念や感情を中国からの輸入品でまかなっているのである」(89ページ)

まさにそういうこと。

「縁えん」+ i =「えに」→「えにし」

「紙かみ」は「簡かん」から、「国くに」は「郡ぐん」から、「ふみ」は「文ぶん」から。日本語には子音で終わる言葉はないから、mやnもあとに母音をつけて発音したのだ。

「番」は中国では「蕃族」の「蕃」、つまり外国とか下等、粗末な、という意味で、「番茶」や「番傘」はその意味。もとは「かわるがわる」で、それが日本で順序の意味に変化した。

おもしろい。

 高島俊男の本を読んでいていつも心に留めておかねばと思うこと、それは、辞書のなかにはたくさんの間違いが書かれている、ということだ。辞書は使いこなせねば知識は高まらない、そして辞書を批判できるようにならねば、ほんとうの「専門家」ではない、のだ。

 

 スタイルは対照的だが、どちらも内容豊富で満足。